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 西条八十の母徳子と藤沢      郷土史研究家 宇田 清一

 童謡や歌謡曲など数多くの作詞で活躍した詩人西条八十(さいじょう・やそ、1892〜1970)は、藤沢市でも「藤沢小学校校歌」や「藤沢音頭」を残した。八十と藤沢にどんな関係があるのか、私は長い間、気掛かりになっていた。そこで調べたところ何と、八十の母親徳子の出身地だったことが分かった。しかし、その生家跡地は、いまだに分からない。

資料によると、徳子は1816(文久元)年、藤沢白旗横丁の商家に生まれる。娘時代、「藤沢小町」と呼ばれるほどだった、と言われる。17歳で東京・牛込の質屋を営む西条家のひとり息子丑之助と婚約。しかし、挙式の直前に急死。そこで説得され20歳年上の番頭重兵衛と結婚。いわば夫婦養子である。八十は3男4女の次男である。徳子は、姑の封建的なしきたりに我慢できず実家に度々、逃げ帰った、と八十の孫娘に語っている。幕末の商家では、女には学問は無用。そんなことから徳子は読み書きができなかった。

しかし子育ての合間に文字を勉強している。そのためわが子の教育には早くから熱心だった。重兵衛は横浜の農家の生まれ。時代が変わり質屋を廃業、せっけん製造業と外国のせっけん輸入業で莫大な財産を築くが66歳で死去。八十、その時、16歳だった。せっけんの香り、ラベルのハイカラさが少年の西洋への芽生えを生んだ。その後、使用人の横領、兄の放蕩(とう)で生活が一変し、生活は苦しく食堂などで暮らしを支えた。後年、作詞した「うたを忘れたカナリヤ」は、その身上を象徴的に歌ったものと言われる。徳子は晩年、緑内障で目が不自由になる。散歩をしながら花や鳥の声を言い当て、孫娘を驚かせている。少女時代、藤沢の遊行寺周辺や田んぼで自然を学びとってのことだった。徳子は、1934(昭和9)年に死去。亡くなるまで添い遂げられなかった丑之助のことをよく話していたという。

八十はのち、早稲田大学教授をしながら「東京行進曲」など数々のヒットをとばし大衆作詞家として名を残した。 八十が、藤沢に歌を残したのも母親の縁からだったのだろう。

徳子の生家一帯は明治13年、藤沢の大火、その後の関東大震災で焼失して分からない。「一度母の生家を訪ねたい」と語っていた八十の長男で名古屋大学名誉教授(陸水学)、八束(つか)氏も昨年10月、82歳で死去。私はいまも、徳子の生家跡を探している。

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