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栗駒町845年目の源義経生誕祭 郷土史研究家 平野 雅道
東北の人は源義経公への思いが強い。都人の「判官びいき」どころではない。それは文治5年閏4月30日平泉の衣川館で自刃した源義経は身替りで遠く北海道へ流浪した「北方伝説」を培ってきた。いつか私も伝承追跡の旅に出たいと思う。今年は源義経が誕生して845年目にあたる。『吾妻鏡』の文治5年閏4月30日の記録は次の通りである。
前伊予守従五位下源朝臣義経 改義行又義顕、年三十一
文治5年は西暦1189年である。このとき31歳だから生まれは平治元年(1159)となる。今年から逆算すると確かに数え年で845年目である。吾妻鏡などからは誕生日までは分からない。父は言うまでもなく源義朝、母は吾妻鏡によると九条院の雑仕常盤(ぞうしときわ)である。九条院は近衛天皇の中宮で常盤は「雑仕」といってその雑役を勤める女官である。常盤も著名なのでここでは触れない。
今年も6月13日に白旗神社で源義経の鎮霊祭がおこなわれた。4回目である。4年前のこの日に没後810年目式典は盛大に執り行われた。栗駒町の菅原次男さんをはじめとして、有志は修験者となって藤沢から奥州路をたどった。延べ500キロ、義経公御魂のはいった兜を笈(おい)で背負い徒歩で栗駒町沼倉まで運んだ。なきがらを祭った御葬礼所(ごそうれいじょ)で鎧(よろい)に魂がいれられた。義経公の武士のほこりである鎧兜は、今は「和(なごみ)の家」の祭壇にまつられている。これは地元沼倉の大工高橋安敏さんの邸宅で茶室をはじめ地域に開放した和風の別宅である。
7月6日地元有志が集合して生誕祭が挙行された。私も参加した。昼食をはさんで豪族沼倉氏の館跡、都田(みやこだ)の古代からの道などを散策した。字桑畑に物産直売所があり2階は源義経資料のバネル展示会場が設営され訪ねる方々の憩いの場となっていた。周囲はなだらかな東北の山々にかこまれ田園風景が広がっている。
和みの家の義経祭壇には、平成14年創作村上直儀画伯の「永訣の月」と題された義経最期の肖像画が飾られている。死を予感して衣川から霊気が漂っている。
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