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常行堂跡の六地蔵 郷土史研究家 平野 雅道

長生院小栗堂参道にある六地蔵と五輪塔 藤沢宿に訪れる方は必ずといっていいほど時宗総本山通称「遊行寺」に参詣される。寺務所にいくと江戸天保期と推定される木版刷の『相州藤沢山遊行寺、境内諸堂社略絵図』を頒布してくれる。現在の配置とかなり違うので興味が尽きない。

 そのひとつに「常行(じょうぎょう)堂」がある。絵図には東門すぐ右手、講中部屋と並び二階建の大きな御堂である。すぐ上に「酒井侯廟所」とこれもおおきな五輪塔が描かれている。これは現在六地蔵と並んでいる。

 六地蔵と五輪塔については元藤沢市文書館長の高野修氏が『藤沢山日鑑(とうたくさんにっかん)十七巻』(藤沢市文書館刊)の巻末に詳しく解説されている。施主は酒井長門守忠重(ただしげ)、万治3年(1660)逆修のために六地蔵像を建立した。逆修とは本人が死ぬ前にあらかじめ自分のために七十七日の仏事を修め冥福(めいふく)を祈ることである。

 忠重は庄内藩出羽鶴岡城主酒井忠勝の弟、白岩(現寒河江市)八千石を領した。江戸初期に過酷な農政を強いたため白岩一揆(いっき)を引き起こした。餓死者千有余人、直訴され百姓数百人は白岩城を攻めた。責任を問われ領地没収、白岩は幕府直轄領となる。また酒井長門守一件といわれる御家騒動をも引き起こし隠居させられる。正保4年(1647)のことである。蟄居(ちっきょ)中に六地蔵と念仏堂を建立したのである。失意の時期に信仰の道をさぐったのであろうか。しかし寛文6年(1666)9月夜盗に襲撃され落命した。五輪塔地輪には次の文字が刻まれている。

    寛文六丙午歳
    光岳院殿従五位
    前長州太守
    鏡譽宗圓大居士
    酒井長門守忠重
    九月十八日 

 この念仏堂の名は遊行寺の記録によれば『藤沢道場光岳院万日堂』とある。平野道治著『?肋温故(けいろくおんこ)』には「常行堂 裏門の傍ニアリ光岳院ト云 酒井長門守、常行一万日の常念仏を開闢(かいびゃく)す」―つまり、一万日を期して常に念仏を一心に修するお堂を忠重が開いた、と記されている。この堂は記録だけで現存していない。

   
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