幕末期嘉永4年(1851)12月3日脇本陣和田家は居宅の出火により全焼した。それに止まらす東坂戸一帯と加藤横丁が類焼した。荘厳寺過去帳によると「夜八ツ」とあり午前2時、深夜のことである。その11年後、文久2年(1862) 家作は再建出来ず空き地のままだった。記録がある。『藤沢宿惣上別書上帳(藤沢市史料集14、藤沢市文書館)には
間口七間半
嘉永四亥年十二月中、自火にて焼失、
未家作出来不仕候、当時明地に御座候
宿場の火災は実に多い。木造密集地帯の町並みは大火になりやすい。天保期(1830〜1844)だけでも天保2年(1831)、大久保町全域と西村と遊行寺客殿が全焼、6年蔵前地域の大火、天保7年、陣屋小路津村屋の出火は宿場の中心本陣周辺約百戸の被害、藤沢宿町並みの半数が焼失している。(拙文、藤沢市史研究三二号『台町火災史料について』藤沢市文書館)
脇本陣とは、本陣の補助的役割を果たす。本陣は勅使・
宮家・公家・大名・旗本などが休泊する。勅使・宮家が本陣に休泊すれば参勤交代の大名といえども脇本陣に移る。本陣と同様に門・玄関・書院を設ける特権をもつ。これを「伝馬屋敷」という。幕末期藤沢宿の本陣は蒔田(まいた)源右衛門、脇本陣は大久保町に柏屋(渋谷)半右衛門家が、坂戸町では和田七郎右衛門家がその特権をもった。位置は現在の本町1丁目4番20号内田屋さん周辺である。火災に遭遇すると本陣ともに一大事である。まして自分の出火責任は? 脇本陣はどう復興するのか…。
和田家に関する史料は極めて乏しい。藤沢市文書館蔵の
慶応2年(1866)『質物相渡申畑証文之事』から次のことが分かる。大庭原畑地四町を質物とし質屋組合から350両を受け取り、以前の借入金200余両を返済し残金100余両を家作代としたのである。この史料には「類焼人差払無之」とある。今日でいう類焼見舞金・賠償金を支払っていない。この金額は不明であるが屋敷の普請をするどこではなく残金は消えてしまったと推定している。
翌年慶応3年は徳川幕府が大政を奉還し11月には「ええじゃないか」騒動が起きる。時代が大きく変わる。本陣は不要となっていく。