当家古文書類は未解読が多いが宿場坂戸町の歴史をひも解く上でいろいろと材料を提供してくれる。その中に「諸向控(しょこうひかえ)」がある。天保12年(1481)7月から11月まで鎌倉屋松兵衛の諸メモである。虫食いがひどく読みにくいが和田家の簡略な間取り図がある。10年後嘉永4年(1851)12月3日に焼失したことは前回紹介した。記録原文の写真と解読文字を末尾に表記す。
北に門構えがある。「板敷」とは畳がなく板の間で駕篭(かご)や長持ちなどを置く。数字は畳数である。「庭」は部屋に囲まれた坪庭。「八 御上段(ごじょうだん)」とは八畳の間取りで大名家などお殿様専用宿泊部屋である。通常「上段の間」といい畳が一段上にあがる。床の間があり、御簾(みす)が下がる。総建坪60坪ほどで蒔田(まいた)本陣より一回り小さい。風呂や雪隠(せっちん)は? 残念ながら記載がない。この「諸向控」間取り図の前後には本陣脇本陣の宿泊記録がある。
天保十二年丑九月三日 戸塚出鎌倉江之島廻り藤沢泊
東明宮様為御遣ひ、但シ伏見御宮様御□也、江戸より
御遣ひ万理小路様谷浦様、両人上京(略)
目的は「東明宮様為御遣ひ」とある、東明宮(とめのみや)とは天保12年暮に11歳で江戸へ下がり一橋慶寿へ嫁いだ伏見宮の姫で「直子(つねこ)」といい一橋直子のことである。のち子に恵まれず夫は他界、養子をむかえるが二歳で死去してしまう。跡継ぎにはのち十五代将軍となる慶喜(よしのぶ)を水戸家から向える。聡明な慶喜が将軍職につくについては一橋家としては当主不在となる。直子は意見を言った珍しい存在として知られている。
この記録は輿(こし)入れ前に伏見宮などの江戸入りののち、京都へ帰る時のもの。戸塚宿から鎌倉江ノ島参りののち藤沢宿蒔田本陣へ宿泊する。本陣入り11・2人ほど、警護武士などは鎌倉屋、ろくろ屋、神奈川屋などに分宿していることが分かる。残念ながら脇本陣和田家へ誰が、と記されていないがご一行の主要人物が宿泊したことは十分推測できる。10月12日には勘定方が下見見分で大久保脇本陣に宿泊した時、家老職が和田家へ宿泊した記録がある。
幾度となく火災にあう宿場、脇本陣和田家そのものの史料はいまだに発見されていない。