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南部右馬頭茂時の墓碑 郷土史研究家 平野 雅道

本堂の後山中腹にある墓石 遊行寺は中世鎌倉・南北朝期の史跡の宝庫である。その信仰と歴史については興味が尽きない。そのひとつ本堂の後山には南部右馬頭茂時(なんぶうまのかみもちとき)の墓がある。少し分かりにくいが「歴代上人の墓」の背後にある。

 江戸後期から明治まで百余種も刊行された「名所図会(ずえ)」のひとつ『東海道名所図会』がある。「相州藤沢」には源義経の伝承史跡と遊行寺があり、とくに時宗本山と小栗堂については挿図とともにかなりの紙数をさいている。南部茂時についてはほんの二行だが、次のように記されている。

 同所にあり、「教淨寺殿正阿清空天心大居士 正慶二癸酉年五月二十二日」と鐫(せん)す

 「鐫す」とは文字が墓碑に刻まれている意味である。「正慶二年五月二十二日」とは西暦1333年5月8日新田義貞が挙兵、分倍河原の合戦を経て21日鎌倉が陥落、22日には北条高時が葛西谷(宝戒寺より川を越え東南の谷)東勝寺で側近武将とともに自殺し北条氏が滅亡した日である。南部茂時は太平記に北条一門と他家合わせて283人の中のひとりとして登場している。

 『南部根元記』(南部叢書二巻)には元祖南部三郎光行の代、文治五5年(1189)7月源頼朝の奥州征伐に従い軍功により糠部郡(ぬかのぶぐん)を恩賞として本国甲州南部の庄より入部したとある。現在の青森県下北半島から岩手県久慈市にいたる領域である。のち十代目の茂時は北条高時側に属し若くして生涯を終えたのである。菩提所は藤沢清浄光寺、法名は「教淨寺殿正阿弥陀仏」と記録されている。『聞老遺事(もんろういじ)』(南部叢書二巻)には卒年34歳とあり、殉死者は6名佐々木市兵衛・大供門三郎・福士十三郎・河野久助・小笠原半助・佐藤彦五郎。遊行寺の寺伝では主人茂時の遺骸を運び菩提を弔い殉死したと『藤沢市史四巻』にある。

 『盛岡砂子』(南部叢書一巻)には「擁護山教淨寺 東禅寺東隣 寺領三百石 相州藤沢清浄光寺末、遊行派、(略)  開基は茂時公相州藤沢にて御生害有しに付、御菩提として御建立也(略)」とある。江戸期は盛岡五山のひとつに数えられている。所在地は盛岡市北山一丁目、地元では毎年1月14日には阿弥陀様の年越祭りから始まった裸祭りで知られている。

   
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