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天保7年の山王山徒党事件 郷土史研究家 平野 雅道

現県立藤沢高校入り口、旧山王神社の石段 先祖鎌倉屋松兵衛は幕末期に藤沢宿坂戸町問屋場の年寄役だった。宿駅機能に関係する記録は多い、問屋場とは人馬継立てなど宿駅機能の中心である。関係史料ひとつ松兵衛の備忘録がある。『町内手控(てびかえ)帳』といい天保6(1835)〜12年にかけて様々な出来事の記録がある。

天保7年7月の項
廿五日晩、台・横丁之者、領家三王山へ米穀高直之寄合
いたし、かかりたき大勢集り此夜名主方より行事へ白米
五合五勺うりつのり申候処、ふれ申候、此義も聞入れ不
申候

 3年前から関東・東北地方に飢饉が広がっている。冷夏による不作で米価高騰、各地で打ち壊しが頻発している。藤沢宿も例外ではない。伝馬賃銭も三割・五割増でないと米が手に入らない。ついに台町・白旗横丁の住民たちは我慢し切れずにご法度である徒党を組み始めた。場所は現在の白旗交差点南にあった山王神社である。かがり火を焚き大勢の人々が集団となっている。坂戸町名主はこの事態にともかく一家族一日分百文につき米五合五勺を売り募ると触れ回ったが、この集団は云う事を聞き入れない。打ち壊されては堪らない、酒造業の日野屋は酒樽を運び込み、翌日宿役人は江戸の江川代官所に窮状を訴える事になった。

米三百俵穀屋より出し安うり大久保・坂戸・台・横丁町々
困民江百文に付七合うり七月廿八日夕名主方より行事ふ
れ申候、申八月六日、日のや善太郎より裏々江壱人に付
三百文づつ子供弐百文づつ出、日のや喜兵衛弐百五十文
づつ出ス、日のや太兵衛百文づつ出シ申候、

 宿場の穀物商は百文=七合と安売りをはじめ、日野屋たちは8月、困った人々に救済金を支給することで騒ぎは終息した。しかし代官所の対応は冷たい。徒党を組んだ事の報告はよい、まだ餓死や打ちこわしなどの事態ではない、『精々心得違無之様可致候』と、せいぜい心得違いなどしないようにせよ、見廻りにいくから決して神社などで集団をくんではならない、と通達されただけである。言外には要するに宿場でなんとかしろ、と言う。

 宿場の名主たちも下手な対応をすると、徒党の罪の連帯責任で処罰を受けかねないのである。

   
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