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大久保と坂戸町境の古道 郷土史研究家 平野 雅道
藤沢宿の町は大鋸町・大久保町・坂戸町の三町から構成されている。大鋸町は遊行寺と境川に接する東一帯で鎌倉郡に属する。境川から西が高座郡である。三町とも江戸期通じて幕府直轄領=天領である。大鋸町は境川があり境界はわかりやすいが、大久保・坂戸町の境目は意外と分かりにくい。江戸中後期から藤沢宿の鎮守は大鋸・大久保町は諏訪神社、坂戸町は白旗神社である、これは今日まで続く。それぞれの町内会の歴史があり、その境目は本町郵便局あたりでやや複雑である。
文久2年(1862)の『藤沢宿惣家別書上帳』(藤沢市史料集十四、藤沢市文書館刊)には、宿場北側「角屋重右衛門」が坂戸町、「日野屋平蔵」は大久保町と区画されている。写真のとおり古道がある。この古道は元禄期の「藤沢御殿絵図」にも表示され御殿橋から表通りにつながる。宿場南側にも連続していて、小川泰堂の笑宿庵につながる道である。もう言い伝えになってしまったが、現在の和菓子店豊島屋の東隣に小道があり、通称「茅場(かやば)」に至る。つまり小川泰堂の居宅は大久保町の西端となる。この古道が大久保・坂戸の境目である。
江戸期、この古道は茅場から坂となり慈眼寺に至る。現在の藤沢小学校の通学路坂道の西側にあたる。『東海道分間延絵図(のべえず)』には本堂・観音堂・秋葉社が確認できる。慈眼寺は天保二年類焼により本尊聖観音を本山(鎌倉、法戒寺)に移動、のち明治期には廃寺となっている記録が『 肋温故(けいろくおんこ)』にある。本尊は一寸八分の腹籠(こも)りの立像で三浦大介の念持仏だったという。
三浦大介とは三浦義明(よしあきら)のこと、平安時代末期の武将である。治承4年(1180)源頼朝挙兵のとき三浦一族をあげて頼朝に合流しようとしたが降雨のため遅れた、当時まだ平家側だった畠山重忠等によって拠城衣笠城を攻められ、のち討死した人物である。
江戸期、大久保町の西端の町名は「堂坂」といった。小川泰堂の『我がすむ里』(藤沢市史料集二、藤沢市文書館刊)にはこの慈眼寺観音堂の前の坂を堂坂と名付け、その町を「堂坂町」としたとある。坂戸町はその「堂坂」の次の町だから「坂戸町」としたというのである。
藤沢宿は中世の歴史伝承の多い地域である。
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