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江戸中期藤沢宿本陣は二軒 郷土史研究家 平野 雅道
当家の古文書の解読は進まない。年代の古い史料を優先している。昨年から「朝鮮人一件御用留帳(ごようどめちょう)」を取り上げた。延享3年(1746)11月から同5年7月(寛延元年)まである。原本約80枚は乱丁でとじ込みがあちこち飛んでいる。先祖に文句を言っても始まらない。
従来寛文年間(1660年代)から本陣家は大久保町堀内家が、 延享2年(1745)から坂戸町蒔田(まいた)家と、江戸期通じて藤沢宿の本陣はひとつであると通説になっていた。この御用留は蒔田本陣が享保4年(1719)朝鮮使節を受け入れた改修明細報告から始まっていた。つまり享保4年前から蒔田家は本陣だったのである。通説の26年も前である。 また御用留の末尾にはつぎのような記録がある。
此段藤沢宿之義年々困窮仕罷在候所、拾年以前
未年宿西之方類焼仕、八年以前酉ノ年中程類焼仕
四年以前丑年東之方類焼仕都合三度ニ宿内
大方類焼仕候、依之本陣之義四年以前迄
二軒ニ而相勤申候所類焼以後壱軒ニ而相勤申候、
延享5年(1748)7月、当時問屋役だった堀内七郎左衛門などが代官所に訴えた。過去3度の大火で藤沢宿は窮乏していたのである。10年前の火災で宿場西側(坂戸町)が、8年前にも宿場の中心部が、4年前には東側(大久保町)が類焼して宿場ほとんどが被災していたのである。そのため2軒だった本陣が、堀内家は焼けてしまい蒔田家一軒で勤めている、とある。さかのぼると4年前の延享2年(1745)以前から本陣は2軒あったのである。
本陣職とは、そう簡単に勤まらない。土地の旧家、武士の末裔(えい)と由緒のある家柄で代々世襲する。苗字帯刀を許され、田畑を多く持ち屋敷住居も広く使用人も抱える。裃(かみしも)上下着服して諸大名や勅使・宮家・門跡や公用の武家の休泊を出迎える。本陣とは特別の旅舎で一般庶民は使用できないである。江戸初期慶長年間から土着した蒔田家の事跡は拙文『藤沢市史研究二十九号』にある。蒔田家がいつから本陣を始めたのか直接史料はまだ発見されていないが、寛永年間に参勤交代が始まるころから藤沢宿には堀内家・蒔田家の2軒の本陣があったとみていいのではないか。
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