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朝鮮使節の矢来垣 郷土史研究家 平野 雅道



「朝鮮人一件御用留帳(ごようどめちょう)」が当家にある。延享3年(1746)11月から同5年7月 (寛延元年)までの記録である。 

 江戸幕府始まってから10回目の渡来である。目的は延享2年 (1745)11月に9代目徳川家重の将軍宣下に対する祝賀である。総勢478名、前年の延享4年(1747)11月には朝鮮王城を出発、延享5年2月には釜山を出て対馬に到着、4月20日大阪に到着し京都を5月4日出発して江戸には5月21日到着している。帰路は6月13日江戸を出立、8月には釜山に帰っている。この年延享5年は7月に寛延と改元されているので一般には寛延元年の朝鮮通信使とされている。

 御用留帳によると29年前、9回目享保4年(1719)、の使節の時と同様藤沢宿は宿泊地となった。通信使の江戸入りが延享5年5月21日、これは品川駅到着を意味しているので前夜泊は藤沢宿となる。@淀A大津…L箱根M小田原N藤沢O品川とあり、これから推論すると往路5月20日が蒔田本陣泊となり、復路は6月14日となる。

 朝鮮使節の町中の通行や宿泊の安全警備についてはかなりうるさい。御触書を見ると失火地震などの非常措置・喧嘩争論の禁止・貴賎を問わず急用以外の往来禁止・横道からの割り込み禁止などがある。最も驚くのは「人馬溜矢来(ためやらい)」の設営である。一般的には「朝鮮垣」といい町中の通行路に青竹の矢来を組み横に上下2本を通したのである。これには2通りの設営がある。「一、通筋町中雨落之溝より外え壱尺程出シ高サ三尺之竹矢来」とあり表通り両側に高さ三尺の竹垣を設営する。また横町では「朝鮮人通り筋町々之分、横町木戸有之所は、朝鮮人通候節、木戸立置可申候、木戸無之町々は、喰違ひ竹垣致し木戸を附、馬乗物通り候様に仕、朝鮮人通り候節は人留可致事」とあり表通りに出る横町については木戸が有る場合は木戸を閉める、無い場合は馬の乗り入れや人の動きを止めるために前後くい違いの竹の矢来を設営したのである。

 驚くのは合計で616間、558カ所に及ぶ数字である。宿場の表通り江戸方見付けから京方見付けまで12町17間の長さで道の両側であるから倍数である。横に通す竹の長さが2間4尺平均なので横町くい違い2段の矢来を加味するとほぼ合ってくる。宿場往還道は朝鮮使節のたびに朝鮮垣で道が遮断されたのである。


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