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藤沢宿の馬屋 郷土史研究家 平野 雅道

前回、東海道の各宿駅は幕府から公用人馬=100人100匹の常設を義務付けられていたと紹介した。人足はともかく100匹もの馬どこにあったの、という疑問がある。藤沢の宿絵図には100匹収容の厩舎と馬場のある大牧場はない、どの宿場も牧場などはない。では100匹もの馬はどうやって確保したのか。
藤沢市史2巻にある当家史料文政3年(1820)『御尋二付申上候書付』にはその答えがある。100匹を分割して確保したのである。
@20匹……急の御用のため宿内で常時囲い置く
A10匹……近隣村に問屋場から年30両で飼育依頼
B59匹……宿内の馬持衆に1匹づつ飼育
C11匹……札馬といい近隣村から必要時に雇う
なるほどである。@常時囲い置く20匹は、宿内に常設の馬屋が必要である。慶応元年(1865)第2次長州征伐のときの宿割帳がある。それによると脇本陣和田家の裏手に「御馬屋」とある。このあたりは内出(うちで)といい大久保町と坂戸町の境の茅場につながる。両町の問屋場の中央にあたる。宿内で平坦な窪(くぼ)地は、ここしかない。20頭分の馬屋は確保できる。また当家史料寛延元年(1748)『朝鮮人一件御用留帳』には、
「馬小屋九軒 長五拾間横弐間四尺」
とある。これは臨時に助郷村々だけでなく周辺村からも寄人馬として推定200頭余りの馬小屋を設置したが、集めるには内出・茅場しか余地はない。また土地の伝承だが、坂戸町問屋場の裏手から内出・茅場に通ずる小道を「馬廻(まわ)し」と言っていたという。写真は現在の風景であるが常光寺山の東から藤沢小学校の丘陵に挟まれた平坦地である。
次に宿内のB馬持衆59人とはどのような人々か、先ほどの文政3年書付にはひとりひとり明記されている。このメンバーを見ると表通り屋敷を構える年貢負担層の高持宿民ではなく問屋場で雇い抱えた馬子衆である。人馬賃銭を収入源として宿場の裏手で馬1匹とともに長屋などに分散居住した人々である。この史料には「立人馬 七拾人七拾匹」の内の人々で3名の代表格に抱えられていた。
ちなみに当時の賃銭をみよう。40貫(注・約150`以内の荷物だけを馬に付け、平塚宿まで運んだとすると御定賃銭は「百九十一文」である。だいたい1日の一家親子4人分の米消費量である1升分が買え、味噌汁、沢庵(たくあん)ぐらいは食べられる。
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