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天保2年 境川出入訴訟 郷土史研究家 平野 雅道

江戸時代、西富地区は西村という。正式には「御朱印地清浄光寺領、相州鎌倉郡西村」である。ほぼ遊行寺門前から御殿橋までの一帯が西村の中心で、独特の歴史がある。
昨年の夏、藤沢市西富の有志の方から旧家小泉家土蔵内を整理中との連絡があった。多くの史料を見せて頂いた。先祖代々の由緒書には、もと鎌倉郡城廻村関谷から宝暦年(1751〜63)に分家したとある。代々農業を家業とされ現在10代目。西富地区の歴史を物語る貴重な史料群のひとつに境川洪水被害の史料がある。
西村の人々にとって死活問題が持ち上がった。事の起こりは文政12年(1829)8月2日深夜2時ごろの大雨による大洪水である。大鋸橋(現在の遊行寺橋)は流失。当時は白旗神社東隣にあった荘厳寺では1尺6寸(約52センチ)の浸水を記録している。境川は決壊し低地の西村の田畑は水没し土砂に埋まり、流れも西村側に変わってしまう。
筆者の記憶だが昭和33年9月台風の直撃で、境川沿いの田畑は水没、西富から花ノ木一帯まで湖水のようになり水が引くのに3日もかかっている。原因のひとつは境川の流形である。西富付近で急激に川幅が狭く蛇行する、更に大雨のとき御殿橋・大鋸橋の橋桁(げた)に流木などが絡みつき一時的に堰(せき)を作ってしまう。そこに大量の土砂が堆積する。
西村の人々は翌年天保元年(1830)領主である遊行寺に訴訟をおこした。流域村と大鋸町など宿場三町と川浚(さら)いの協定を結んだ。が、宿場は大鋸橋の架設をしたが古い橋桁の杭(くい)は残し、また大鋸町は掘割りして水車渡世を始める、大久保町は下見はするが川浚いをしない。再び洪水被害が危惧(ぐ)され、西村百姓衆の生活が保証できない。
天保2年11月西村の組頭利右衛門はさらに寺社奉行に訴状を提出した。「当村儀者前書通り別而地低村柄ニ付、水難困窮之百姓共相続方江差支、往々退転路頭ニ相立候外無之…」村民は耕地を捨て路頭に迷うしかない、と裁許を求め、寺社奉行評定所は関係者を召喚した。その史料が小泉家にある。結果は?大変気になるところだが不明である。
明治末期から大正期、耕地整理組合を組織、藤沢市民病院前には当時の労苦をしのばせる記念碑がある。
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