|
子母神信仰と赤穂義士の遺児伝承 郷土史研究家 平野 雅道

5月のある日、 子母神(きしぼじん)立像がご本尊である柄沢の隆昌院を訪問した。縁起は小川泰堂「我がすむ里」に詳しい。丁寧なご住職の説明でいろいろと教えて頂いた。
ここは小川泰堂自筆額が寺宝となってよく知られている『おもひ子に 思いくらべて 人の子も 守る法(のり)の力なるベし』泰堂の4男周二、当時4歳を思ってのことである。鬼母子神は民話でも多く語られている『昔々インドにはハリティーという幼児ばかりを食べてしまう女がいた。1万人目のこと、お釈迦(しゃか)様は諫(いさ)めるためにその子を隠してしまった。嘆き悲しむ女に、子を食われる親の気持ちはどうか、と諭(さと)した、女は目が覚め仏教に帰依して子供を守る神となった』つまり鬼が神になったので角のない「 」を隆昌院は基本とされている。子宝・安産・厄除けなど子供の守護神である。
また、隆昌院は赤穂義士ゆかりの寺院なのである。開山は元禄16年(1703)閑摂院相休日心上人である。この人物は赤穂義士奥田孫太夫の末子である。赤穂事件ののち柄沢に止住、出家して鎌倉妙本寺で永代千部(せんぶ)を発願し大功があった。千部とは法華経約7万字を1000回唱えることである。当時、妙本寺日等上人より 子母神を授かり、柄沢の地に宗休庵隆昌院を建立したと小川泰堂の「我がすむ里」にある。
奥田孫太夫とは岩波文庫『元禄快挙録』(福本日南著)によれば正しくは「奥田孫太夫重盛(しげもり)」堀部安兵衛・高田郡兵衛とともに江戸の急進派で有名である。1647〜1703、武具奉行、150石、行年57歳、もともとは志摩鳥羽城主内藤和泉守に仕え、和泉守の姉(浅野内匠頭の母)が浅野家に嫁ぐ時の付け人だったが、内藤和泉守は刃傷がありそのまま浅野家に仕えた。奥田孫太夫は2度も同じ運命にあったのである。
義士にはもうひとり奥田貞右衛門行高(ゆきたか)がいる。これは奥田孫太夫の養子である。同じく義士の近松勘六の弟で行年26歳、討入りの日は一子「清十郎」のお七夜だった、遺児は老中秋元但馬守の家来寺田九兵衛に引き取られ扶育されたという。開山の相休日心上人から見れば清十郎は甥にあたり、実父と義兄とそして義士の冥福を祈り、また遺児の行く末を案じての出家と推測すると何とも胸がつぶれる思いがする。深い信仰心である。
|