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藤沢宿江の島道の蔵前 郷土史研究家 平野 雅道


 いろいろな方から「蔵前(くらまえ)」ってなんですか?と聞かれる。今年6月その榎本米店さんの店が古建築を利用しながらギャラリーとして動き出したためである。

 私は今年で60歳、生まれも育ちも藤沢宿のど真ん中である。13年前、気がついたら記憶の中にある旧家がどんどんなくなっていたので、会社勤めのかたわら宿場町=藤沢の町並み写真を取りまくった。 翌年「済美館」で写真展を開催した。地元来客の中で印象にあるのは、蔵前にある榎本米店さんの今は亡き老婦人だった。歳月が流れた。

 文化年間、江戸幕府が測量編纂(へんさん)した「東海道分間延(のべ)絵図」には現在藤沢橋交差点にある砂山観音から庚申(こうしん)堂のちょうど中間に「郷蔵(ごうくら)」と表示された土蔵二棟がある。「宿村大概帳(しゅくそんたいがいちょう)」=藤沢市史二巻=には、江戸中期、災害用備蓄倉庫として建築された土蔵の記録がある。

 宿内往還より三町半程引込御蔵壱ケ所有之、

 是ハ寛政七年卯年新規御普請有之、御買上御

 囲稗千六拾四俵余詰有之候

 天明年間の全国的大飢饉(ききん)の対策として天明8年(1788) 幕府は郷蔵の設置を命令、寛政元年(1789)江川太郎左衛門は支配地に唐茄子・切りぼし・麦・稗(ひえ)など貯蓄を奨励している。藤沢宿は寛政7年(1795)土蔵を新築、稗を千俵余備蓄したのである。場所は現在の町内会名「蔵前」の西の少し高い丘である。

 当時境川は現在の流域より西寄りを流れ、旧江の島道に沿っていた。現在の国道467号線や中村外科あたりは江戸期は境川である。幕末文久年間の町並みを見ると、境川と江の島道の間には家々がない。江の島道の西の山すそに家並みは連続している。まとめると境川の浸水被害のない丘の中腹に防災用「郷蔵」がありその前を「蔵前」と呼ぶようになったわけである。

写真の米蔵・店舗・内蔵とつづく表間口は昭和初期の典型的な商家の造りである。昭和8年刊行の『現在の藤沢』には藤沢の白米商界では「業績顕著たる蔵前の山市(やまいち)、榎本市右衛門」とある。=やま 市=一が商号で著名だったのである。



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