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中世関東武士の争乱と「敵御方供養塔」 郷土史研究家 平野 雅道


 筆者が小学生のころ、戦死した武将を敵も味方もなくを弔った墓石と教えられていた。今から思うと当時の先生方は地域の歴史はよく勉強されていたな、と思う。ただ子供の学力では「御方=みかた」の文字がよく分からないままだった。現在では「味方」の文字が日常使用され同じ意味であるが、読みようによっては敵の戦死者を敬称したように見える。つまり敵の大将をのみ供養したと…。この誤解は意外と多い。碑は遊行寺東門の隣にある。

 碑の前面には次の文字が刻まれている。

 自応永廿三年十月六日兵乱至同廿四年於

 南無阿弥陀仏 在々所々敵御方為箭刀水火落人畜亡魂悉

 皆往生浄土故建此塔於前僧俗可有十念者也

 応永廿五年十月六日

 意味は「応永23年10月6日から24年にいたる在々所々のて兵乱で敵味方の将兵だけでなく戦乱で命を落とした。牛馬などの魂、みな浄土へいけるようこの塔の前をすぎる僧俗は十遍の念仏を唱えてください」というものである。これは応永23年(1417)10月6日から24年の間に大きな戦いがあり戦死者は数知れないことを示している。これは歴史上「上杉禅秀の乱」と呼ばれ、関東武士を二分する兵乱のことである。

 当時京都将軍家に反攻する鎌倉公方足利持氏と持氏の政治に不満をもつ武士の筆頭に上杉氏憲(うじのり、出家して禅秀)がいた。10月2日、鎌倉を主戦場に持氏邸へ夜襲をかけることから始る。10月6日諸国の兵が参集して合戦が開始される、持氏は極楽寺口から腰越・片瀬を経て小田原の敗走するが持氏方の上杉氏定は重傷を負い藤沢道場で自殺をしている。10月8日43歳と「鎌倉九代記」にある。この間は禅秀方と持氏方の戦闘で藤沢周辺はまさに地獄だったのである。この乱の動きは藤沢市史四巻に詳しい。2年後、まだ関東各地では戦乱が続いていたが、3回忌にあたり当時住持だった太空上人が供養の導師をつとめたのである。

5年後持氏は禅秀方である常陸小栗氏の居城小栗城を攻め落城させる。城主の小栗満重の逃亡劇がのちの小栗判官・照手姫の伝承を生むのである。



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