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伊勢山公園と忠魂碑

5月の中国四川省大地震は他所事ではない。多くの人命を失い街は廃墟と化す。大正12年9月1日、未曾有の大災害、関東大震災は藤沢をも襲った。当時藤沢町(鵠沼・辻堂含む)の被害状況は倒壊家屋2400余戸、死者104名、重軽傷者200余(藤沢市刊行図説『ふじさわの歴史』より)。藤沢町の復興はどうだったのか。
昭和58年8月『移り変わる藤沢の街』と題した山本悦三氏の遺筆がある。氏は大正11年藤沢町在郷軍人会長に選任されていた。震災の翌年、遊行寺の復興工事を見回り、倒壊し放置された日清日露戦役の「忠魂碑」を発見した。「職責上放置しておくに忍びずその復興を思い立ち、時の軍人会の役員諸公に計らい復興計画を立案した。」と氏は決断、倒壊放置されたのは遊行寺の忠魂碑だけではなかった。
@西征陣亡軍人之碑 明治13年建立 元白旗神社内
A忠魂碑 大正2年建立 元遊行寺内
B殉国勇士招魂碑 元明治小学校内
C明治卅78年戦役陣亡軍人之碑 元鵠沼神明社隣
写真右から@は明治10年西南戦争で戦死した高座郡村々の軍人をまつった、展額の文字は有栖川宮の親筆で裏面には「藤沢駅中」とある。Aは日清日露戦争のBCは日露戦争の戦死者を祭っている。設置場所は白旗神社地の伊勢山となったが約60メートルの台上である。何千貫もある石碑をどう上げるか、費用はかさむ。総額4000円である。当時のこと、桟道をつくりウィンチで引き上げる原始的方法が取られた。氏は時の金子角之助町長と協議し町費補助3分の1を確保、残りは在郷軍人会の決議で寄附金を集める事となった。これは途方のない大事業で拒絶にあうこともあり家庭不和になった役員もいたほど、と氏は述懐している。
昭和2年2月11日竣工式となり以降毎年昭和20年まで盛大に招魂祭が行われた。この落成記念に桜の苗約500本を全山に植樹、のち300本を追加し小田急線沿線の桜の名所となった。敗戦直後、占領政策により忠魂碑取り壊しが命令されたが、氏は墓碑であって天皇礼賛ではないと抗議主張して残された経緯もある。この桜の名所は昭和40年代まで藤沢市唯一の公園として親しまれた。
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